第1話:妖精登場!

「自分らしく生きましょう!」
「本当にあなたのやりたいことができる会社へ!」

そんなコピーを打った記事の下には、一位から三十位までの企業名がズラッと並んでいた。

それからのページはそのランキングに載っている企業の紹介が続く。

風見沙奈は小さく笑うと、転職情報誌をバサッと閉じ、ベッドの上へ投げた。

「また会社に入っちゃったら、
本当にやりたいことなんて一生できないわよ」

そして沙奈は机の上に置かれた白い封筒――退職願を手に取り、ぼんやりと眺めた。
私は私にしかできない生き方を選ぶわ、それはきっと、間違いじゃない。

何度も言い聞かせてきたその言葉を、また沙奈は思った。
会社を辞めるという決断はいつまでも違和感として残り、胸を締め付け続けていた。

コッコッコッ……。

ピンヒールの音が、広いエントランス、無機質なタイル張りの床に、壁に反射する。普段は履かない高いヒールを履いてきた。沙奈なりのけじめのつけ方だ。

一応、今日で会社に顔を出すのは最後だった。
明日からは有給消化に入り、それ以降の手続きは郵送で済ませるつもりだ。時刻は夕方の六時。定時とされた時間だが、この時間に帰宅する社員はいない。もちろん沙奈もこんなに早く帰宅するのは十年前の新人研修期間以来、久しぶりの事だった。

「本当に、辞めてしまうんだな」

背中からそう声がかかる。チームの皆、同僚、後輩たちの見送りは全て拒否したのだが、上司である加藤部長からだけは断り切れなかった。

「長い間、お世話になりました」

沙奈は振り返り、笑って頭を下げる。このやりとりは何回目だろう。退職願を私から直接受け取ったのは他ならぬこの部長なのに。

 

「その、送別会は来週だったな。
部署の皆で行くぞ、もちろん俺も。
まぁ、俺は邪魔かもしれないがな」
いつも強気だった加藤部長の言葉が、今日はとても弱々しく響く。辞職を止められなかった責任でも感じているのだろうか、と沙奈は思い、おかしくなる。

実際沙奈の残してきた業績は、この大手セミナー会社「ネクストランク」でも目立ったものだった。主にマナー講師として各種セミナーを取り仕切っていたが、新人マナー研修をはじめ、中堅社員のキャリアデザイン講義、エグゼクティブ向けのハイレベルな講座まで全てを受け持つことができた。

勤務態度はまじめで実直、クライアントとのトラブルも起こさず、後輩の指導にも大きな成果を上げていた。当然上司からも部下からも一目置かれ、今後の昇進を約束されているのは誰の目にも明らかだった。

実際退職願を提出してから、多く慰留を受けた。特に加藤とは何度も話し合いをし、食事を重ね、ようやく受理に至った。それは沙奈にとって、自分が求められていることを実感し続ける、精神的に充実した時間だった。

 

「最後にこれだけは言わせてくれ」
「はい」

加藤は姿勢を正し、まっすぐ沙奈の目を見て言った。

「この会社に戻りたくなったら、いつでも俺に言え。たとえ何年たってもな。これから独立して、苦しいことも沢山あるだろうが、これだけは忘れるな」

沙奈は胸の奥がじわっと熱くなるのを感じつつ、加藤と同じくらい強い瞳で見つめ返す。

 

「……ありがとうございます」
深く一礼し、踵を返して歩き出す。自動ドアが開き、沙奈は夕日に包まれたオフィス街の風景へ溶けていく。部長はまだ私を見つめているだろうか、けど、そうだとしても……。

沙奈は振り返ることなく、力強く家路についた。

 

・・・・・

 

「はい、風見です。
ええ、アニー様、もちろん準備の方は出来ております」
都心部へ出るための駅から自宅のマンションまでの通り道、なじみの商店街を歩きつつ、スマホに耳を当てる。フリーのマナー講師となってはや半年、以前は担当外だった受注の処理やスケジューリングに戸惑いながらも、何とか沙奈は日々をこなしていた。

「……えっ! キャンセル、ですか?」

あやうくスマホを落としそうになりながら、沙奈は湧き上がる不安を相手に悟らせないように注意して話を続ける。

「しかし新人マナー研修は……。ええ、そうですか、自社でまかなわれる、と」

沙奈は明らかに落胆しつつも、事務的な口調を崩さない。

「ええ。いえ、まだキャンセル料は発生しません。そうですか……、いえいえ、私は他にも中堅社員向けの講座など、多くのサービスを行っておりますので、はい、その際にはまた、ぜひよろしくお願い致します……」

沙奈はスマホを切り、鞄にしまい、大きなため息をついた。これで二週間後まで仕事の予定は無くなった。今月も収入はほとんど見込めない。

今の企業は、勝ち負けがはっきりしている。大企業は行政の後押しもあって順調に業績を伸ばし、中小企業は日々目まぐるしく変わる社会情勢に翻弄されていだ。

当然そういったところではコストカットが命題化している。まず切られるのは社内とかかわりの薄い、外部のセクションだ。特に新人マナー研修など、真っ先に見直しの対象にされがちである。まして沙奈はフリーになってまだ半年しか経っていない。頼むのも楽なら切るのも楽、というありさまだった。

もちろん沙奈はそれに激しく憤りを感じていた。
企業の本質は何より人である、というのが沙奈の信条である。

社員教育費を安易に削ることはスキルアップの機会を奪い、結果的に将来の競争力の低下を招きかねない。一度火のついた怒りはふつふつと燃え上がっていく。

このままではいけないと、沙奈は何とかこのストレスを打ち消そうと頭をめぐらす。

 

ぱっと目に入ってきたのは居酒屋だ。まだ時間は早いが、目先の店は営業を開始している。普段から酒を飲む方ではないが、ストレス解消には手っ取り早い。

「でもなぁ……」

沙奈はしかし、すぐに行くのを止めた。酒は確かに飲んでいる間はいい。酔っている間も嫌なことを考えなくて済む。しかし酔いがさめ、素面に戻った時、結局何も問題が解決していないことを思い知らされるのだ。それが分かっているから、自然と足は止まった

 

「それなら……」

 

今度は反対側の喫茶店に目を向ける。そこは会社員の頃に時々利用していた喫茶店で、毎日種類の違うケーキを焼くのだ。最近足を運んでいないが、久しぶりに甘いものを食べれば怒りもどこかに行くのではないか。

「よしっ」

沙奈は決断し歩き出す。しかしその足は喫茶店の前を通り過ぎ、商店街のはずれまで伸びていった。

ブーンと低い音がうなる、どこのメーカーのものかも分からない古びた自動販売機。飲料のラインナップはどれも見たことも聞いたこともない。価格が全て百円なのも納得のクオリティだ。
また収入が無くなったんだもの、贅沢してちゃ、駄目よね。

結局はそうなのだ。居酒屋や喫茶店に気軽に入る経済力は、今の沙奈には無い。もちろん会社員時代に築いた貯金はあるが、それは先の見えない沙奈にとって大切な生命線であり、気軽に消費するわけにはいかなかった。

沙奈はミルクティーのボタンを押し、姿勢を屈めた。

ガタンッと大げさな音がし、手を伸ばしたその時……。

 

パッパラーパッパパパーッ!

 

「!!!?何っ!?」

慌てて沙奈がのけぞると、もう一度ガタンッと缶が落ちる音がした。販売機を見ると、正面についた申し訳程度の小さな液晶盤が点滅している。沙奈はその時初めて、この販売機が当たり付だったことを知った。周囲に人はまばらだったが、沙奈は急に恥ずかしくなり、急いで二本の缶を鞄に収めて部屋へと急いだ。

 

「結局これは……、何?」
沙奈はクッションの上に座り、ミルクティーを飲みながら当たりの缶をしげしげと見つめる。缶はほとんど重さが無く、安い金メッキのような加工がされている。

おかしいのは缶の表面に何の文字も無く、プルタブすらついていないところだった。これでは缶の上下も分からない。沙奈はスマホを掲げ、パシャッと写真を撮る。

フェイスブックで誰かに聞いてみようと思ったのだ。

しかし、これは誰にも分からないだろう。何しろ缶に文字一つ記されていない。たとえサプライズの当たり景品だとしても、今の時代にこれは不審過ぎる。軽すぎるのもおかしい。沙奈は何が入っているんだろうと思い、耳元で軽く缶をシャカシャカ振ってみた。すると、

 

 

 

うわぁあぁあぁ……

 

 

「きゃっ!」
沙奈は慌てて缶を放り投げる。

今の、声?

小さな悲鳴のような声が、缶の中から聞こえてきたのだ。動悸が一気に速くなり、体中の筋肉がこわばる。沙奈は一瞬で恐怖に支配された。好奇心は消え失せ、不審物を見るような目で床に転がった缶を目で追う。すると今の衝撃がきっかけになったのだろうか、缶の一部に小さな穴が開き、そこからものすごい勢いで白い煙が噴出し出した!

 

ブシュゥウウゥウウーッ!

 

缶はその場で勢いよく回転し、煙をさらにまき散らしている。たちまち部屋は大量の花火を一度に点火したように煙まみれになり、沙奈はパニックになって悲鳴を上げ続ける。
「きゃーっ! きゃーっ!」
沙奈は咳き込みながら、玄関へ逃げようと床を這い出す。そこでバキン! と大きな金属音がして、部屋中を何かが飛び回り始めた!
「いやーっ! 何これ、いやーっ!」
沙奈はとっさにさっきまで座っていたクッションを掴み、ブンブンその場で振り回す。
無我夢中でその動作を続け、どのくらい時間が経っただろうか。
気が付くと煙はほとんど払われており、目の前で得体のしれない影が二つ、空中に浮いているのが分かった。
「うえっ! おぅえっ……」
「ちょっと、大丈夫~?」
沙奈は声が出せなかった。驚きの度合いが大きすぎて、言葉に出来ない。沙奈の目の前には今、雀よりも一回り大きいくらいの二体の人型の人形――それは生きているように見えるし、動いてもいるのだけれど、そんな生物はこれまで見たことは無かった。

少なくとも、テレビや絵本の中で以外は――が、空中に浮いていたのだ。
「うん、落ち着いたよ、ありがとう」
「どうも~」
二体のうち男の子らしい一体が、沙奈の目の前に迫る。
「こら沙奈! 乱暴だよ、もっと大事にしてくれなきゃ!」
「……」
沙奈の頭の中は今、パニックのあまり思考停止に陥っていた。
当然そんな言葉に反応できるはずがない。
「まあまあ~、まずは自己紹介よ、自己紹介」
今度は女の子らしい妖精が、男の子を諫める。ようやく頭が回転し始めた沙奈はとっさに、これは幻ではないか? と思った。さっきの煙には幻覚作用があり、自分は今幻を見ているんだ、と。目の前の非現実を何とか処理しようと、沙奈の脳は回転を速める。
「あ、そっか」
男の子はそう言うと、沙奈の目の前でくるんっと宙返りをし、人懐っこそうな笑顔を浮かべて挨拶した。
「やあ沙奈、僕はスザッキー! 見てのとおり、可愛い妖精さ!」
続いて女の子がその隣にやってくる。
「私はフェアッキー。沙奈、おめでとう! あなたは選ばれたのよ~。
私たち妖精のご加護が受けられるの~」

「き……」
「き?」

 

「きゃあぁあぁあっ~!!!」

 

沙奈の脳はここで思考の限界を迎えた。
大きな悲鳴を上げ、それを聞いた二人の妖精は慌てて部屋中を飛び回る。
「だ、大丈夫よ沙奈。これは現実! 私たち、あなたに危害を加える訳じゃ無いの! だから落ち着いて、ね?」
必死になだめるフェアッキーの後ろでスザッキーは、
「やっぱりいきなりえずいたのが良くなかったかな~」
と悩んでいた。もちろんそんなことは今問題ではない。そのあと沙奈の部屋からは二分間ほど悲鳴が止まず、周囲の住人が警察に通報しようか? と思い始めた段階でようやく収まっていった。

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