小説「東京起業ストーリー」

第5話:これって迷走?

夕暮れ時、駅からマンションまでの帰り道を沙奈は歩いていた。考えるのは仕事の事ばかりだ。さっきまで沙奈は都内の雑居ビルの一室で、中堅社員向けの意識改革講座を行っていた。相手は全部で九人いて、そのときの反応をつぶさに思い返す。その反省もそこそこに、今度は今取り組んでいる個人起業家向けの講座の内容を考え出す。沙奈は周りの人よりも歩くのが速い。どんどん他の歩行者を追い抜いていく。街の喧騒も気にならず、店の看板も、花壇の花も沙奈の目には入らない。商店街に差し掛かっても尚、沙奈の意識は仕事に集中していた。おかげで沙奈のひいきにしていた八百屋が閉店セールを始めたことにも気が付かない。八百屋の主人は沙奈に気づいたが、厳しい表情のまま歩いているのを見、声をかけるのを止めたほどだ。
エントランスを入り、エレベーターの三階を押す。オートロックはついていない、築二十五年のマンションだ。水はけの悪いアスファルトむき出しの通路を歩き、沙奈は部屋の前まで着く。鞄から鍵を取り出し、中に入る。
「お帰り~」
その声を聞き、沙奈はハッとする。そうか、今は一人じゃないんだ、と。鍵を閉め振り返ると、フェアッキーがふよふよとこっちへ向かって飛んでくる。表情は仮面でよく分からないが、口元と、何よりさっきの声で笑っているのが分かる。
「ただいま、フェアッキー。スザッキーは?」
「イヤホンでラジオ聞いてるわ~」
沙奈は鞄を置き、立ったまま靴を脱ぎだす。こんな会話だけでも、お帰りと迎えてもらえるだけでも、妖精たちが来てくれてよかったな、と沙奈は思った。

沙奈は上着だけをハンガーにかけ、パソコンの前の椅子に座った。フェアッキーが淹れてくれたいつものコーヒーを飲みながら一息つく。
「どうだった~、お仕事?」
「ん~。最初は良かったんだけど、途中から皆がそわそわしだして。分かるわよ? 仕事を途中で止めてきてるのは。でも講座なんてたったの二時間なんだから、そこは割り切ってほしい所だったわね」
「そういう時ってどうするの~?」
「注意したら雰囲気悪くなっちゃう時もあるから、どんどん当てるの。喋ってもらう。そうすればまた意識がこっちに戻って来るわ」
「ふ~ん、さすが沙奈ねぇ……。あ、朝畳んだシャツは全部アイロンかけてしまっておいたから~」
「わ! ありがと~フェアッキー! なんか本当、いっつも悪いわね」
「いいのよ~。私はそのために来たんだもの~」
沙奈は小さい体でアイロンをかけているフェアッキーの姿を想像する。すると何だか可笑しかった。こんなに存在自体はファンタジーなのに、魔法で家事を済ませちゃう、とかじゃないんだな。
「どうしたの、沙奈?」
「あ、ううん。なんか健気って言うか、可愛い」
そう言って沙奈はフェアッキーの頭を優しく撫でた。

カタカタと響いていたキーボードの音が止まって、しばらく経つ。窓の外はすっかり暗くなり、どの家庭も寝静まっていた。沙奈はぼんやりと作業途中の画面を見ている。
「沙奈、大丈夫?」
「まだお風呂入らないの~?」
妖精たちが沙奈の傍に近づく。作業に気をつかって離れていたのだ。
「あ、うん。大丈夫よ」
「個人起業家用のプログラム?」
「そうよ~」
沙奈は作業途中のウィンドウを閉じ、別のファイルを立ち上げて説明する。
「調べてみたんだけど凄いのね、個人起業家って。業種だけでも小売業、ネットショップ、飲食店、美容アドバイザー、カウンセラー、ヒーラー、セラピストに介護サービス、環境保全活動、コピーライターやプログラマー、ITコンサルタント、法律事務所でしょ」
「す、ストップストップ!」
たまらずスザッキーが沙奈を止める。そのまま延々と業種を挙げ続ける勢いだった。
「凄いのね~。沙奈の熱意が伝わってきたわ~」
「それぞれの業種の内容を調べて、業界ごとに今の傾向を見つけ出していってるの」
「まさかそれ、全業種分やってるんじゃないよね!?」
「まさか。私はまず、どんな業種にも共通してる点を考えてたの。そこがこのプログラムの芯になっていくところだから」
そう説明する沙奈の声には疲れは出ていない。どこか楽しんでいる印象すらあった。
「どんな業種も一人じゃ成り立たないわ。クライアントやお客様、業者間の連携も大事になってくる。人と接するとき、まずは好印象を与えることが大切よ」
いつの間にか沙奈はどんどん話し出した。スザッキーは、沙奈が講座の時もこんな風にワクワクしながら話をしているんだろうなと思う。だけどそれを口にしてしまうと、今は邪魔になると思い黙っていた。
「会社と違うのは、個人起業家はあくまでその人個人、一人だけって所ね。会社名はそのまま肩書になって、出会う前から色んな印象を相手に与えるわ。個人起業家にはそれが無いから、最初の印象が特に大事。出会う前の相手の評価がゼロやマイナスからスタートしてても、いくらでもプラスに転換できちゃうわけ」
「なるほどね~」
「それから商談。大切なのは自分のメリットよりも、相手のメリットを話すこと。それには相手の事をよく知り、相手の立場に立って考えることが必要になるの。どちらか一方だけが得するような関係じゃ続かないわ。だから私は……」
二人にとって沙奈の説明は、このままずっと続くものと思われた。しかし沙奈は次の言葉を発しようとせず、マウスから手を放し、考え込んでしまう。
「ど、どうしたの沙奈。続きは?」
「そうそう、とっても分かりやすかったわ~」
沙奈はため息をつき、頬杖をついて言った。
「実はもう、大体のプログラムは完成してるの」
スザッキー、フェアッキーは同時に驚く。
「凄いじゃない! あれからまだ一週間しか経ってないよ!」
「本当だわ~! 沙奈ってどんどん自分で問題を解決していけるのね~!」
「ありがと」
少し笑って沙奈はつぶやく。
「……沙奈、出来が気になるのは当然だよ。もちろんプログラムの調整に協力する。それに集客なら任せて! 僕がバッチリアドバイスするから」
沙奈はゆっくり二人を見ながら言った。
「違うの。あ、もちろんプログラムの出来は心配だし、集客とかはまた別の問題なんだけど……」
「それ以外に、何かあるの?」
「私がこれからやろうとしてることって、マナー講師とはちょっと違うっていうか。そもそも一対多数の講座形式じゃないし。これ始めたら、前の会社のチームの皆や上司、他の同僚や後輩たち……、皆、どう思うかな?」
沙奈のブログやフェイスブックには、株式会社ネクストランクの社員たちも読者に大勢いる。告知すればすぐに知れるだろう。新しい取り組みを否定されることは無いだろうが、専門分野から離れ出している印象は与えかねない。
「沙奈~、それは……」
「分かってる、関係ないって。でも駄目、どうしてもそんな事を考えちゃって。私のこれ、迷走って思われないかな?」
自分でも愚かだと思う。しかし沙奈はほんの半年前まで、十年も同じ会社に勤めていたのだ。その間に人間関係や精神的なよりどころ、そういうものがその会社に偏ってしまっているのも無理は無かった。
「……」
スザッキーは沙奈を励ます言葉を探す。もちろん彼にも沙奈の言わんとしていることは分かっていた。
「会社だったら会社ごとの方針があるし、指示もある。与えられた目標が困難でも、周りの人間と協力することで乗り越えられる。けど私は今一人だし……」
「沙奈、沙奈って本当に前の会社が好きだったのね」
「好き、かぁ……」
フェアッキーの言葉はしっくりと沙奈の胸に収まる。そうか、私、未練を断ち切って会社を辞めたと思ってたけど、違ったんだ……。
「ねえ、ちょっといいかい?」
「何?」
「沙奈の前の会社は、今の沙奈に仕事をくれる?」
「えっ」
温まりかけた沙奈の心は、スザッキーの言葉でさっと引いた。その質問の答えを考え、すぐに返す。
「まさか、私は会社を辞めたのよ? 今は独立して、ある意味対等な関係になってる」
「そうだよ。厳しい言い方になるかもしれないけど、それまでなんだ。クライアントにはなりえない、ましてやライバルとして競っていく会社の社員の心象を、どこに気にする必要があるの?」
「あ……」
ライバル、そうか。もう、そうなんだ。いくら前の会社の人たちが今も自分に優しくったって、そんなの今の私の生活には関係ない。そうね……、そうだわ。
客観性を取り戻した沙奈の心は、また熱を帯びる。今度はさっきの暖かさとは違う、闘志のようなものが燃え上がる熱さだ。
「君はもう一歩を踏み出してる。もう少しで、君の本当にやりたかったことが叶うんだよ」
「……ええ」
沙奈は頬杖を外し、ピシッと頬を叩く。
「ね、二人とも、ちょっとプログラムの内容見てくれる?」
沙奈は再度、作成途中のファイルを開く。二人が説明を聞こうと画面をのぞき込んできた。

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