第8話:勇気を出して
昨夜から降り出した雨は徐々に激しさを増し、朝になっても止む様子は無かった。予報によると今日中は降り続くらしい。沙奈はザァザァ音のする外の風景を横目で見ながら、こういう時は毎朝出勤しなくてよい今の自分の立場をいいと思った。こんな日の通勤電車は誰でも避けたいものだ。
そんな雨音にかき消されるように、沙奈はタイピングする音を止めた。
「……これでよし」
ブログの内容を読み返し、投稿ボタンをクリックする。
「あら、沙奈~。もう終わったの~?」
そこへちょうど今、梅こぶ茶を持ってきたフェアッキーが驚く。
「最近何だかブログの更新が早くなったわね~。それに、一日に何回も更新しなくなったし~」
「うん、ステップメールを始めたから、ブログの内容も変えてみようと思って。ちょっと見て?」
沙奈は体を傾け、フェアッキーに画面を見るように促す。
「今日は飛び込み営業のコツ、昨日は結婚式スピーチを頼まれたら、おとといは朝礼の一言の順番が回ってきたら、かぁ。あれ~? 沙奈の事が書かれてないじゃない~」
「そう、割り切ることにしたの。ブログもフェイスブックも全部、私の仕事を知ってもらうための宣伝だって。これまではそういうところが徹底できてなかったから」
「え~。沙奈の何気ない日常ブログ面白かったのに~」
沙奈は笑って、
「そういうメールも少しもらったけど、スザッキーに言われたの。『沙奈の事を知ってる人はいいけど、そうじゃない人がこれを見せられてもちょっと困るよ』って」
「まあ失礼!」
「私も最初はそう思ったんだけどね。けどその通りだわ、芸能人のブログだって、ファンの人しか興味ないわけだし」
実際沙奈もすっかりネタ切れで、更新することが苦痛になり始めていた。今の日常ワンポイントアドバイスに切り替えたところ、新規の人の反応がグッとよくなり、一日何回も更新する必要が無くなった。それに何よりネタが尽きず、さらさらと短時間で更新できるのが大きい。
「沙奈~、沙奈は芸能人にも負けてないわよ?」
「ふふっ、どんな励まし方よ、それ?」
「沙奈って綺麗だし、頭いいし……、あっ、それにスザッキーに対するツッコミとかも適切だし~」
どうやらフェアッキーはテレビに映る芸能人と比較して、本気で沙奈が負けていないと思っているらしい。
「ちょ、恥ずかしいからいいって。もう」
「そうかしら~」
「そうよ、あら……?」
モニターに新着メールの通知が表示される。パッと見、知らないアドレスだった。マナー研修の依頼が来たのかと思い、沙奈は期待する。一瞬迷惑メールかも、と頭をよぎるが、今はどのメールソフトも迷惑メール対策は万全で、目にする機会は無かった。
「……来た」
文面を読む沙奈の目が急にキラキラと輝き出し、何度も同じ個所を確かめる。どうやら最高の知らせに間違い無い様だ。
「沙奈、新しい仕事~?」
「違うわ! あ、違わなくて!」
そう言うと慌ててフェアッキーの両手をとる。
「新しいプログラム、最初の依頼よ! ステップメールで興味を持ったんだって!」
それを聞いたフェアッキーのテンションも一気に上がる。
「きゃ~っ! 凄いじゃないの沙奈~!」
沙奈はフェアッキーの小さな腕を痛めないように気を付けながら手を取り、小刻みに上下させる。フェアッキーもにっこり笑ってそれに返していた。
「うおぉおおぉ~い!」
ダイニングでスポーツ新聞を読んでいたスザッキーも慌てて部屋へ飛び込んできた。
「聞こえたよ、沙奈! おめでとう!」
「スザッキーも!」
沙奈は立ち上がり、二人の妖精と輪になって踊った。皆口々にやった、やったと口ずさみ、沙奈はうきうきとステップをした。やったね、沙奈、僕のお蔭だね! ええ、スザッキーのおかげよ! やっぱり沙奈は芸能人並みね! ええ、私は今そんな感じよ! 三人は浮かれるあまり、会話の内容に誰も突っ込みを入れない。
二人の妖精と一人の成人女性の祝福ダンスと言う相当なメルヘン空間が繰り広げられた後、沙奈はメールを再度読み直す。
「うん、明日が面談希望か。同じ女性で歳も近いし……、ネイルサロンね、うん、いけそうだわ……」
沙奈ははやる気持ちを抑えつつ、早速明日会えますというメールを返した。
「沙奈、おめでとう。今夜はお祝いだね!」
「私、とびっきりのごちそうを用意するからね~!」
沙奈はそう言ってくれる妖精たちに笑顔を返した後、冷静に言った。
「いえ、明日は大切な日よ。いつも通り過ごして早めに寝ましょう」
二人の妖精はきょとんとしている。沙奈の目はもう浮かれてはいなかった。
いつもより早く夕食を済ませ、九時過ぎにはベッドに入った。沙奈は寝るときに部屋を真っ暗にするたちなので、明かりは無い。スマホは脳を覚醒させるため触れないよう、パソコンの前に置いておいた。
マンションの周囲は静まり返り、物音は無い。雨はようやくさっき上がったが、一日中降り続いたので皆早く家路についたようだ。今の時間に外を歩く人もまばらだった。
カッチ、コッチ、カッチ、コッチ……。沙奈は静寂の中、初めて自分の部屋にある時計の秒針の音に気が付いた。こんな音がしていたんだ、ずっと気が付かなかった。ベッドに入って二時間が経とうとしていた。
眠れない。
その理由は明白だった。とうとう沙奈は寝付くことを諦め、ベッドサイドにあるスタンドのスイッチを入れる。オレンジ色の明かりがともり、暗闇に慣れた目が一瞬眩む。
「フェアッキ~、スザッキ~……」
沙奈は小声で二人の名を呼んだ。夜は二人ともダイニングにいるのだ。おやすみと告げた後でこんなことをするのは初めてだった。しばらく待ったが、返事は無い。
寝てるか、そうだよね。沙奈がスタンドのライトを消そうとした時、
「「ばあっ!」」
「きゃっ」
二人がおどけて目の前に現れた。
「その、ごめん、起こしちゃった?」
「いいえ~、夜は妖精の時間だもの。ちゃんと起きてたわ~」
「そうそう、夜は妖精の時ふわぁ~あぁあ……」
「ぷっ」
いきなり大あくびをかましたスザッキーに思わず笑ってしまう。
「ちょっとスザッキー、今のあくびで妖精界の常識が疑われるじゃない!」
「違うよ、全然眠くないよ」
「嘘、さっきのは本気のあくびだったわよ?」
「ほら幕内の全取組まで時間あるし」
自分が寝た後、スザッキーはそんな番組を見てたのか。夜は妖精の時間か、そう言えば夜の間に靴を作る童話があったなぁ、などと懐かしくなる。
「ありがとう。二人って本当面白いわね、漫才見てるみたい」
その後沙奈は体を横に起こし、二人が目の前に降りてくる。いつも二人が夜をどんなふうに過ごしているか、そんなとりとめのない話をした。
「……本当はスザッキーとね、今夜は沙奈、眠れないんじゃないかって言ってたの~」
「夕飯の時から既に緊張してたからね、沙奈」
「えっ、私そんなだった?」
沙奈は自分では気づかなかったが、夕飯の時にめっきり口数が減っていた。スザッキーがテレビの話題を振っても、フェアッキーが料理の話題を振っても上の空だった。
「大丈夫だよ、話を聞いてみて難しそうならお断りする。それは先方も最初から分かってくれてたじゃない」
「もちろん前提としてはそうだけど……。私、何としても最初の依頼を成功させたいの」
沙奈の表情は決意に満ちており、固い。
「こんなこと言うの、沙奈に失礼かもしれないけど」
「何、フェアッキー?」
「あんまり力を入れすぎるのもよくないわ~。今回の依頼が成立しなくったって、ううん、もっと言えば沙奈の仕事が全部うまく行かなくったって、何も心配しなくていいと思うの。だって沙奈には素敵な力があるから。前の会社に戻っても、きっと皆沙奈を受け入れてくれるわ~」
「素敵な力、か……」
それはきっとその通りだろう、そう簡単に思える自分はやはり甘えているのだろうか、沙奈は自問自答する。
「沙奈、誰でも最初っから完璧には出来ないよ。でも相手の立場に立ってしっかり考えることができたら、必ず結果は出せると思う」
「……ああ、なんだろう。二人の言葉は凄く嬉しいんだけど」
「けど?」
「震えるの」
思ったより沙奈は重症らしい。スザッキーはわざとおどけて言った。
「ちょ、駄目だよ~沙奈。クライアントだって緊張してるんだよ~? それに沙奈が緊張してたら、説得力ゼロだよ~」
しかし沙奈は笑わずに返した。
「緊張、ってのもあると思う。けどそれだけじゃない。私、最初の依頼を絶対成功させたいの。これは私の新しい第一歩だから。そう思うと体の芯から震えてくるの。怖いんだけど、嬉しくもあって。私、自分に自分が期待してるのが分かる」
「沙奈、そんなに……」
フェアッキーはかける言葉が見つからない。
「沙奈はプレッシャーに強いタイプかい?」
「割とそう思ってるわ」
沙奈は前の会社でいつも、新しい講座を開くときの最初の講師を引き受けていた。自分には上手く出来ると自負していたからだ。加藤部長からはいつも、お前は豪胆だな、と言われていた。
「なら、いいかい沙奈。最初の一人が成功したらそれを事例にして、メルマガやブログでアピールしていくんだ。それを見た人たちが、私も、俺もってなるようにね。成功体験は何よりも強い説得力になるし、同じように悩んでる人たちをグッと引き寄せるから」
成功が、成功を呼ぶ正の連鎖。その最初の一歩が、明日の面談にかかっている……。
「ち、ちょっと、何でそんな事言うのよ!」
フェアッキーはフォローしようと慌てだす。
「……うん、ありがとスザッキー。私、もうそうなる未来しか見えないわ」
沙奈の表情から力みが抜ける。私は、成功のその先を目指すだけ。それだけを考えていればいい。
フェアッキーは沙奈の言葉に驚き、スザッキーは自信に満ちた表情で沙奈を見る。沙奈は二人にお礼を言い、おやすみと告げてスタンドの電気を切る。
「ねぇ……、二人とも、今夜はここで寝てもいいわよ?」
沙奈はなんとなく、三人の絆のようなものを感じていた。心細さや不安があったわけではなく、ただ皆で仲良く眠りたいと思いついたのだ。
「は~い、うふふ……」
「もちろんだよ、沙奈」
二人は沙奈のお腹の上にポスッと乗っかる。
「あ~、沙奈の匂い」
「やめなさいよあんた!」
音はしないが、きっと今フェアッキーがスザッキーを叩いたのだろう。
「お休み、二人とも……」
沙奈は二分後には、すっかり夢の中にいた。