第3話:私にしかできないこと
明け方に少し降った雨は既に上がり、薄い雨雲を突き抜けて、朝日が街を照らしている。それはビルを、公園を、アスファルトを照らし、沙奈の部屋の窓から差し込んできていた。
規則正しく寝息をたて、ベッドで沙奈が眠っている。年齢は当の本人が正直に答え辛い段階に達しているのだが、この寝顔はそれを感じさせないほど幼い。
「ピピピピピピピ……」
八時を告げる目覚ましのベルが部屋中に鳴り響くが、沙奈は少し眉を動かしただけだ。すっかりこの音には慣れている、と言った具合だ。
「沙奈~、朝よ~?」
フェアッキーが沙奈の顔の近くまで来るが、
「あと五分……十分」
沙奈はさりげなく惰眠の猶予を一瞬で伸ばし、布団をかぶる。
「こうやってフリーランスの人間は堕落していくんだね。。。。」
スザッキーが部屋の隅でぼそっとつぶやいたその一言に、沙奈はカッと目を見開いた。
「誰が堕落するのよ!」
そう叫ぶや否や上半身を起こし、沙奈は目覚めた。視界には部屋の中で浮いている妖精が二人。
「……あれ? 夢?」
寝ぼけまなこでそうつぶやく沙奈を見て、二人はプッと笑う。
「まだ寝てるの?」
「昨日から一緒にいるじゃない、私たち~」
沙奈は顔を洗い、歯を磨き、朝食をとって着替えた後にパソコンを起動させる。
「さ、今日もやるわよ」
妖精たちも興味深げに沙奈の後ろを飛ぶ。
「沙奈、今日の予定は~?」
「今日は……。明日はね、今度江東区の会社で中堅社員向けの講座をやるの。その打ち合わせがあるわ」
すかさずスザッキーが質問をかぶせる。
「今日は?」
沙奈はバツが悪くなり、口ごもる。
「……取り立てて人と会う予定も、外出する予定も無いわ」
今の沙奈にとって、こういう日は珍しくなかった。むしろ明日のように打ち合わせが入ることのほうが珍しく、こうして質問され、改めて苦しい現状を知る。
「ま、いつもみたいにアメブロの更新をするわ」
昨日スザッキーに指摘された更新だが、いきなり止める訳にもいかなかった。
「私たちの事を書くの~?」
フェアッキーがニコニコしながらそう言う。
まさか! 沙奈も昨日少しその事を考えたが、妖精がやってきました、なんていきなり書いてしまうとブログのコンセプト変更を疑われてしまう、というより自分が心配されるだろう。主にメンタル面で。
「じゃあ僕、大江戸将軍捕り物帖セブンの再々々々々放送見てるね」
「あんたあれ何回見るのよ~」
「二回から先は数えてないね」
沙奈も思わず反応する。何、その番組名! てか再放送しすぎ! 平日昼間の時代劇再放送ってそんなカオスな事になってるのね、等々。だが口には出さない。
「それにほら、大相撲中継まではまだ時間あるしさ」
テレビは隣のダイニングにある。しかしもちろん音は聞こえてくるだろう。スザッキーは私の仕事を手伝いに来てくれたんじゃなかったのか、と思い、沙奈は少し腹が立った。
「正直時代劇とか大相撲とか言ってる場合じゃないのよ、私。本当は毎日でも講座を開きたいわ」
自分でも意識していなかったのだが、思わず棘のある口調になる。フェアッキーが沙奈の目の前に来て、申し訳なさそうな目をする。
「ごめんね~沙奈。変な事で騒いじゃって」
「あ、ううん、いいのよ。言い方がきつかったわね」
今度はスザッキーが沙奈の目の前にやって来る。
「ねえ、明日打ち合わせの、中堅社員向けの講座の代金はいくら?」
その質問は全然これまでの会話の流れとは違ったものだった。もとはと言えばあんたが……、と沙奈は思うでもなかったが、答える。
「十名まで二時間で、一人一万円」
「それが全部沙奈の利益になるの?」
「講座の資料代や会社までの交通費代もかかるから、実際はもっと少なくなるわ」
沙奈は答えながら、なぜこんなことを隠しもせず、全部妖精たちに喋ってしまっているのだろうと不思議に思う。
「ふぅん……」
スザッキーはそうつぶやき、腕を組んで考え始めた。その態度はかつての上司、加藤部長のようだ。なぜ昨日出会ったような妖精にそんな尊大な態度をとられなければならないのか。沙奈はまた少しかっとなる。
「あのね」
沙奈は視線の中央にスザッキーを見据え、まくしたてるように喋り出した。
「今はどこの企業もお金が無いの。そりゃ大企業は業績が盛り上がってる所もあるけど、国内のほとんどは中小企業で、私のクライアントもその層なの。しかも私はフリーの個人事業主でしょ。都内に山ほどあるマナー研修会社と勝負しようって思ったら、まず価格を抑えることが絶対なの!」
自分の体の何倍もある人間からそう言われても、スザッキーは態度を変えない。沙奈の視線の隅で、フェアッキーが慌てているのが分かる。きっと彼女はフォローの言葉を探しているのだろう。沙奈の胸が罪悪感で少し痛む。
「しかも社員研修費はどの会社でも、コストカットのやり玉に挙がりやすい」
スザッキーはさっきの沙奈の言葉に、冷静にそう追加する。
「……分かってるなら口を挟まないで」
妖精にあたってしまうなんて、自分はどうかしている。よっぽど余裕が無いんだわ、私。
沙奈は現在の仕事が不調であることははっきり分かっていた。しかし他人にそれを指摘される機会も無かったのだ。沙奈が誰にも仕事の相談をしてこなかったのだから、当たり前ではあるのだが。
沙奈は気分が沈みながらも、何とか朝の更新を終わらせようと考えた。しかし目の前には依然スザッキーが浮いている。沙奈の視界をふさぎっぱなしだ。文句を言おうとしたその時、
「沙奈、企業にお金が無いから価格を抑えるんじゃない。企業にお金が無いからこそ、確実に成果を上げる講座を考えるんだ!」
スザッキーは小さな体をいっぱい使って、身振り手振りでそう言った。沙奈はその言葉の意味がすぐには分からず、頭の中で反復する。お金が無いから、成果を上げる――?
「……えっ?」
「沙奈が前にいた会社でやってた、他社と同じような内容の講座、プログラムをやったって意味が無いでしょ。沙奈にしか出来ない、本当に成果を上げられるプログラムを考えようよ!」
沙奈は八つ当たり気味にさっきそう言ったのだが、スザッキーはそう捕えてはいないようだった。にわかには信じられないけど、この妖精は私と同じくらい、私の仕事を真剣に考えてくれているのかも知れない。沙奈はそう思った。
「昨日僕が言ったよね、一番大事なステップを飛ばしてるって。それがこのプログラムなんだ。世界中で君にしか出来ない、本当にクライアントに効果を上げさせられるプログラム。言い換えれば目玉商品さ!」
「目玉商品?」
「そう。これまでやってこなかったけれど、沙奈には出来る新しいプログラム。絶対に結果が出せるんだから、一人一万円と言わず、もっともっと価格を上げたっていい」
沙奈は目を見開いて、目の前の妖精の熱弁を聞いていた。高単価の独自プログラムを目玉商品にする……。そんな発想は今まで、一度もしたことが無い。
「ち、ちょっと待って~!」
机の隅の方で話を聞いていたフェアッキーが、慌ててスザッキーの隣にやって来る。
「そんなの急に言われても、沙奈は困るわよ。大体それって全部スザッキーの仮説じゃない。私はマナー講師として十年間やってきた、沙奈の考え方の方がずっと現実的だと思うわ」
フェアッキーは沙奈を庇うように見た。それは我が子を心配する母親のような瞳だった。私とスザッキー、どっちが正しいんだろう……。沙奈は視線を落とし、考え込む。
二人の妖精はそんな沙奈を見て、怒りに言葉を失っているのでは、と心配になる。実際にさっきまでの沙奈は不機嫌だったのだ。互いに耳元に手を当てあい、こしょこしょ内緒話を始める。
「ほら、謝りなさいよ。沙奈ってばきっとすごく怒ってるわ」
「お、怒ってないよ。僕は女性の扱いには慣れてるし」
「どこがよ! またそんな事言って、この前の豪徳寺さんのこと、忘れたの?」
「フェアッキー! その話はもうしないって約束したじゃないか。確かに僕はちょっと言い過ぎちゃうところもあるけど、そこもまた僕の魅力であって……」
いつの間にか論点のズレた言い争いを始めてしまった妖精たち。そのまま口喧嘩はヒートアップするかに思われたが、沙奈が顔を上げる。
「スザッキー。私はどうしたらいい?」
スザッキーはえっという顔で沙奈を見る。沙奈は自分の思いつかなかった意見に興味を持ったのだ。少なくともこれから内容の薄いブログを更新するよりも、ずっとためになる。沙奈はそう判断し、昨日出会ったばかりの妖精に真剣に質問をする。
「沙奈!」
スザッキーの声は跳ねる。
「だ、大丈夫なの~?」
「うん、スザッキーの言ってることって一理ある。自分だけに出来る強みがあるのって、フリーの絶対条件だから」
スザッキーの表情はみるみる明るく、充実していく。沙奈に僕の言葉が届いたんだ! 沙奈の真剣さが、スザッキーには何よりうれしかった。
「じゃあ具体的に言うよ。紙を一枚用意して、自分の経験、ノウハウ、実績を書き出してみて! 自分の中に眠っている価値を見つけてみよう!」
沙奈は画面の後ろの本棚に手を伸ばし、一冊のノートを取り出した。
「ノートでもいい?」
「もちろん!」
素早くノートの白紙のページを広げ、ペン立てからボールペンを引き抜く。カチッと勢いのいい音が小さく耳元で響く。
「それじゃあ書き出すことは全部で六つ」
- 好きなこと、得意なこと。
- これまでに多くの時間を割いてきたこと。
- これまでに多くのお金を使ったこと。
- 実績、成果、資格。
- 過去悩んだ事、解決できたこと。
- 人から良く褒められること。
スザッキーは一気にそう説明し、沙奈の手がピタッと止まった。
「お、多いわね……」
「うん。出来れば一つにつき十個は挙げてみて」
「じゅう?」
沙奈は思った、これは中々時間のかかる作業だと。どこまで詳しく書いたらいいのかも
分からない。その度にスザッキーに聞けばいいのだろうか。
「沙奈、大丈夫~?」
心配するフェアッキーに、すぐに大丈夫! とは言えなかった。
「う~ん、でもやってみるわ……」
部屋の中に、カリカリとボールペンが動く音が響く。沙奈の頭の中には、半年前までい
た会社での出来事が、堰を切ったようにあふれ始めていた。